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PEACH-PIT『しゅごキャラ!』1〜3巻書評(オヤジ感性バージョン)






最初に、二つの点で恥ずべき告白をすることをお許し願いたい。

第一点としては、コスカメコという立場にありながら、これまで当作品のアニメも原作もぜんぜん観て(読んで)こなかったという点だ。
それでいてコスイベントの会場で「しゅごキャラ!」コスの方を拝見するたびに、「可愛いですねー」などと原作も知らず申し上げてきたのである。
あまつさえ写真まで撮らせていただくに至り、これを恥知らずと言わずして何と呼ぼう。
コスカメコとして、いや、オタクとして自らの不明を恥じたい。

第二点も上記の内容と関連するのだが、「しゅごキャラ!」レイヤーの皆様のあまりの素晴らしさを目の当たりにし、またネット等での当該作品の好評を知るに、私の中で原作を読んでみようという思いが生じたのも無理からぬことであろう(アニメを観るのも考えたが、多忙な社会人には1話で30分拘束されるアニメ版よりも、コミック版の方が時間的負担が少ないのである)。
そう思い立ち書店へ足を運んだものの、当該作品は当然のことながら少女マンガ。
しかも掲載誌は(読者層が比較的低年齢とされる)「なかよし」である。
書店の陳列棚のあたりをうろつくのさえ、私のような薄汚れたオッサンには憚られる雰囲気さえ感じられる。
それでも勇を鼓して何とか作品を探し出し、レジに運ぶときのえもいわれぬ緊張感・罪悪感ときたら……筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことである。
読者諸兄におかれては、私の恥ずべき姿を想像して存分に笑われるとよかろう。

ともあれ、そうした紆余曲折を経て入手した『しゅごキャラ!』の1〜3巻(8巻まで発刊されているのは承知していたが、期待はずれのときダメージが大きいのでとりあえず購入はここまでにとどめた)だったが、一読して秀作であるとの印象を受けた。

以下は3巻までを読んでの私の個人的な評であると思ってほしい。
なお、口調が普段のですます調ではなくやたら偉そうなのは、取り上げる作品と評者自身の属性の(絶望的なまでの)差異が気恥ずかしく思えるが故の照れ隠しであるので、読者諸氏におかれては諒とされたい。

本作のテーマは簡潔である。
「自己実現」、すなわち「『なりたい自分』になるにはどうしたら良いのか?」ということだ。
ここでいう「なりたい自分」とは、職業やある種の成功(金銭や権力の入手)ではなく、人格的な変容・達成を指す。

主人公・日奈森あむは、「キャラが一人歩きしちゃってる女」であり、「ほんとうはもっとかわいくて素直な子になりたい。でもいまさらそんなの、あたしのキャラじゃないし」と思い悩んでいる(本文中に緑色のフォントで示した文言は作中からの引用である。コミックの常として原文は句読点がほとんどないため、引用者の判断で適宜付け加えていることをお断りする)。
本作では彼女は「しゅごキャラ」という人格変容をもたらす精霊(?)が所有することになり、それによって彼女の人格を(一時的に)変化させることになる。
「しゅごキャラ」の所有者(「キャラ持ち」と呼ばれる)はあむ一人ではなく、同じ小学校に通う仲間たち(「ガーディアン」)や、彼女/彼らと敵対する組織や敵か味方かわからない人間など複数である。
彼らは「エンブリオ」と呼ばれる「どんなねがいもかなえるまほうのたまご」を探しており、それをめぐって物語が進んでいく――、というのが3巻までのメインのあらすじと私は解釈した。

一読して、「いろいろと上手い」と感じた。
さすがヒット作を連発するPEACH-PITだけはある。

まず上手いのが、「なかよし」の主たる読者層にウケそうな「変身」を扱っている点である。
「キャラ持ち」たちは「しゅごキャラ」と一体化して(外見的にも)変身することが可能なのだ(これを「キャラなり」という)。
PEACH-PITの達者な作画とデザインセンスは同種の変身モノコミックの中でも群を抜く。
それだけでも相当のアドバンテージだが、同種の、それこそ同じ「なかよし」の大ヒット作である「セーラームーン」でさえも「変身」があくまで「外見」(と能力)に限定されていたのに対して、本作では「内面」の「変身」にフォーカスしている点が斬新であり、読者のニーズを捉えている。
外見のみの変身は現実世界においても容易であるし、能力の変身はフィクションの中だけのことであり、絵空事に過ぎる。
だが内面の(「なりたい自分」への)変身は、現実世界でも困難ではあるが可能であり、読者たる少女たちの願望でもあろう。

また少女の願望をあげるならば、(少なくとも3巻までの段階では)ヒロインの恋愛対象となりうる候補者として、対照的な2人の男の子を並び立たせているのが上手い。
一人は品行方正でどこか子供じみた純粋さもある王子様タイプ(=辺里唯世)。
もう一人は危険な香りの漂う(でも純粋なところもある)年上の男(=月詠幾斗)。
タイプの違う2人を配することで、逆ハーレム状態ともいうべき少女たちの理想の境遇を現出させている。
さらに言えば、昨今の少女マンガ(「なかよし」よりいま少し高年齢層向けの)にしばしば見受けられるエロティックな描写も幾斗との交流では描かれる。
たとえば、「ずいぶんせまそうだな。入るか……?」「な……なにが?」といったやりとりと作画は性的な行為を容易に想起させるし、ふとした隙に「耳、弱いのオレ。オマエといっしょ」などと微妙に官能的な台詞回しも散見される。

いささか話は脱線するが、幾斗がこのように(いろいろな意味で)大人であるのに対して、いま一方の恋愛対象候補者である唯世は、明らかに子どもじみている。
彼に好意を持つあむに対して、「気になる女の子がいる〈中略〉もう一度あわせてくれないかな……『アミュレットハート』に!」「明るくて前向きで力強くて……。あ、あんな女の子、はじめてあったんだ……!」などとのたまう始末である。
「アミュレットハート」は、あむが「キャラなり」した姿ではあるのだが、それは彼女の「本当の自分」ではない。
キャラがかわってもあたしはあたし。……だけど」というあむの独白が象徴的に示すように、唯世はあむの(アミュレットハートという)虚像を愛しているだけで、生身の彼女自身を理解しようとしているわけではない。
恋愛対象に自己の理想とするイメージを投影するのは大なり小なり恋愛の常ではあるのだが、自らの作り上げた「外キャラ」と「ほんとうはもっとかわいくて素直な子になりたい」と思い悩むあむに対しては、いささか残酷であると言うほかない。
あむが「『外キャラ』を演じている」ことさえも理解しようと努める幾斗との差は断絶的ですらある。

上手いのは何も男性キャラだけではない。
女性キャラでとりわけ魅力的なのが、モデル出身の歌手、ほしな歌唄(うたう、と読む。本作のキャラ名はATOK泣かせだ)である。
シャープな作画はあむなどの小学生キャラとは一線を画す。
「キャラなり」後のデザインもゴスロリ系で非常に秀逸と言って良い。
そして何より、「これは良いツンデレですね」と言わざるをえない内面描写たるや。
あむと敵対する組織に属し、彼女らには非情に振舞うにも関わらず、幾斗と会った途端にデレデレモード全開という、ここに萌えずしてどこに萌えるか、といわんばかりのキャラである。
これで大きいお友達の読者も満足されることと推測する。

再度の脱線をお許し願いたいのだが、巷間では「つるぺた属性」なるものがあると小耳に挟んだことがある。
要するに世の大多数の趨勢である「巨乳至上主義」の正反対と言うべきか、幼女的な体形、すなわち「胸が小さい」ことに価値を見出す一派のことである(この理解であっているのだろうか)。
これまで私は、別段巨乳派でもなかったが、それにもましてつるぺた属性のことがまったく理解できなかった。
とりわけ二次元的な表象では、何も好き好んでペチャパイにしないでも……と思っていた向きさえある。
ところが、本作を読んで私はその蒙を啓かれた思いがするのだ。
つるぺたは良い……と(<力強く拳を握りながら)。

主人公であるあむがつるぺたであるのは小学生という設定からしても自然なことだが、上で(アツく)述べた歌唄は14歳のモデル出身アイドルという設定である。
彼女の「キャラなり」した姿さえもが良く言えば華奢、別の言い方をするならばつるぺたであるのは設定の上からの必然とは言えまい。
主人公たちとのデザイン上の差異付けを考えるならば、むしろメリハリのついたボディラインである方が自然であり、作者にとってはそうした選択肢もあったはずである。
にもかかわらず、PEACH-PITはそれを拒否した。
これはつまり、明確な意図として歌唄をつるぺた体形にしたことを意味する。
PEACH-PITの英断に快哉を叫んだ世の「つるぺた属性」の同志は多いことだろう。
私もその一人であることは言うを待たない。

話が次第に変態じみてきたので、読者が完全に退いてしまう前に本題に戻ることにしよう(でないと違う世界に行って帰ってこられなくなる恐れがある)。
変態的なことを申し述べるのはオヤジの特徴のひとつだが、オヤジ特性は何もそればかりではない。
たとえば「『泣かせ』に弱い」といった特徴もオヤジ特有のものである。

本作(の1〜3巻)においては、私にとっていちばんの「泣かせ」どころは、3巻の二階堂悠にまつわるエピソードにとどめを刺す。
二階堂はあむたちのクラスの担任教師でありながら、彼女らと敵対する組織の一員でもあるという二面性を持った人物として登場する。
こうした設定からもおわかりのように、彼は(主人公たちと比べれば)大人のキャラクターである。
作中では年齢は明らかになっていないが、20代半ば〜後半といったところだろう。
世間(社会でも世界でも良いが)がわかり始め、分別がつき始めた年齢、といったところか。

ところで、本作では(世間一般の)大人を否定的にとらえられている。
幾斗の「いらないたまご、自分でこわすヤツも多いんだぜ。つかれた顔して歩いてるおとななんて、みんなそうだ。『なりたい自分』のたまごなんて、とっくに捨ててる」という台詞はその端的な表れである。
二階堂は「世間一般の大人」ではなく、かつては「しゅごキャラ」の「たまご」も所有していたのだが、周囲の環境によって自らの「たまご」を結果として「自分でこわす」ことになった過去を有する。
そうした過去の因縁もあってか、「たまご」に喩えられるところの「夢」だとか「自己実現」といった事柄に否定的な言動を繰り返し、ついには主人公たちと対決することになるのだが、最終的にはあむの「キャラなり」である「アミュレットクローバー」の治癒能力によって自らの「たまご」を蘇生させることに成功する。
二階堂のたまごは「またね……」という言葉を残して再び目の前から消え、二階堂は「やっぱり……だめなんだ……〈中略〉こわれたたまごは、もとにもどらないんだ……」と絶望するが、「でもせんせぇ〜。あの子は『またね』っていいました。せんせぇの『なりたい自分』はね、リニューアルしてぴっかぴかになって、なんどでも生まれかわってくるんですよ」という「アミュレットクローバー」の言葉に救われる。

――ここである。
ここが「泣かせ」どころなのである。
「『なりたい自分』のたまごなんて、とっくに捨ててる」状態に片足を突っ込んでる大人であれば(これには私自身も含まれる)、「『なりたい自分』は」「なんどでも生まれかわってくる」という言葉にどれほど救われることか。
「なりたい自分」を持つのは何も子どもの特権ではない。
(程度の差こそあれ)世を知り、自分を知った後でこそ生まれてくる「たまご」もあるのだ。
そう思いたいとオヤジは考える。

また上のやりとりの直後に、あむと二階堂が話すシーンがあるのだが、これも大人を泣かす場面である。

二階堂(自分の失敗を受けて)「ぼくの『負け組』は決定だっ……
あむ「それって、だれとの勝負なの?
二階堂「……それは……社会全体……? とかだな
あむ「思い出せないの? じゃあ、たいした相手でもないんじゃん

まさにその通り。
このあたりで人生に疲れた大人の涙腺は崩壊し、「なかよしコミックス」を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにすることになるのである。

以上、長々と申し述べてきたが、結論としては「PEACH-PITはけしからんほど上手い」ということになろう。
ほんとうにけしからん。
けしからんにもほどがあるので、これから『しゅごキャラ!』の4〜8巻を買ってくることにしたい。

【蛇足】
書評・マンガ評は「である調」でやろうと思ってた(文体をいろいろ模索してるので)んですが、少女マンガ・萌えマンガに「(偉そうな)である調」は合いませんね(^_^;)。
無駄に冗長になるし、萌えポイントを語るのに困るったらありゃしない。
何かガチ変態っぽくなりますしw
読み返して、全部「ですます調」に書き換えようとも思ったんですが、まぁこれも文体模索の実験だと思い、このまま掲載することにします。
読者諸氏におかれては(<まだ余韻が残ってる)、自分のことガチ変態とか思わないでくださいね(>_<)。
| nasuhiko | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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