伊藤計劃『虐殺器官』書評(未読者置き去りバージョン)
2009.02.26 Thursday | category:書籍
伊藤計劃の『虐殺器官』を読了した。
タイトルと表紙の画から見当がつくように、一読して陰惨な物語である。
情報量の多い作品であるためテーマらしきものはいくつもあるように見えるが、私見では本作の最大のテーマは「自由は人は幸福にするのだろうか?」であると考える。
最初にあらすじを記しておこう。
舞台は近未来、おそらく数十年後の米国とその他の国々だ。
主人公は米軍特殊部隊の特殊工作員−−ありていに言えば暗殺を専門とする要員である。
彼が参加した作戦で取り逃した男、ジョン・ポールは様々な国にその後も出没するが、奇妙な事にポールの出現した国では必ず大規模な内乱・虐殺が発生する。
それはなぜか?
そしてジョン・ポールの目的は?
「虐殺を発生させる器官」とは一体何なのか?
主人公たちはついにポールを追い詰めるが、そのとき明らかにある真相は驚くべきものだった−−。
こうしてあらすじをまとめる事に意味がないとは言わないまでも、ストーリーのあらましをいくら解説したところで作品の魅力が伝わるとはあまり思えない。
本作の魅力はそれこそ一字一句舐めるように精読することでこそ立ち現れてくると思う。
まず驚かされるのが、作中に配された莫大なまでの情報量である。
近未来を舞台としたSF作品に往々にして見られる傾向(たとえばコミック版の「攻殻機動隊」)ではあるが、本作のそれは異常な水準に達している。
ほとんど全てのページに何らかの知識の披露がある。
そしてそれは、非常に広範な範囲から収集されたものだ。
特殊部隊の部隊編成や捕虜の扱い方といった軍事知識。
戦争請負企業の形態。
近未来の世界はこうなるであろうといったSF的ガジェットの的確さ。
ゲーム理論に見る利己的行動/利他的行動の優劣。
さらには言語学や文学、生物の進化や脳機能にまで言及がなされる。
著者の知識の該博さには脱帽するほかない。
それらをいちいち抜粋するだけで膨大な分量になるから避けるが、私自身が興味深く読んだ部分は以下の部分だ。
この世界では全ての物が識別され、各所で認識される。
これを作中では「認証」と呼ぶ。
その結果、人間の行動はいつ何を食べ、どこへ誰と出かけたかまで全てが記憶される。
それらの履歴は認証を管理する企業のサーバーに蓄積されており、本人(や本人が許可する者)が希望すれば、一篇の「伝記」として出力することも容易である。
これは明らかに現在のネットサービス、ブログやmixiの進化形と言って良いだろう。
作中の世界が実現すれば、こうしていちいちキーボードで入力せずとも、「今日●●で▲▲さんとご飯を食べた。美味しかった」といったブログが即座にできあがる。
また同様に、認証されるのは人間ばかりではない。
商品の「来歴(メタ・ヒストリー)」、つまりどこで収穫されどこで加工され、どういったルートで店先に並ぶかまでも容易に知ることが可能となる。
それによって、「先進的消費者(アルファ・コンシューマー)」はその商品について議論し、また商品の売り上げを左右するまでになるという。
これもまた現在のサービスに照らせば、価格.comなどクチコミサイトの(ユーザーの知る能力の)拡張版といったところだろうか。
しかしながら、人物にしても商品にしても、認証される情報量は莫大なものであり、その全てを知ることはできない。
人間の時間は有限なのだ。
けっきょく最終的には、人は自分の見たいものしか見ないのである。
ところで、「自分の見たいもの」を決めるのは、当然ながら自らの自由意志による選択である。
自由でなければ選択もできようはずがない。
作中の言葉を借りるならば、「自分にとって最適なものを『選ぶ』能力が『自由』なのだ」(P251)。
だが同時に、「自由とは、選ぶことができるということだ。できることの可能性を捨てて、それを『わたし』の名の元に選択するということ」(P252)である以上、その選択結果は
他でもなく「わたし」が負うよりない。
仮に選択の結果が何らかの罪をもたらした場合も、「神は死んだ、と誰かが言った。〈引用者中略〉罪を犯すのが人間であることは普遍だったが、それを赦すのは神ではなく、死に得る肉体の主人である人間となった」(P133)のである。
とは言え、「完璧な自由」などどこにもない。
低開発国の子どもたちにはそもそも選択肢がないし、アメリカなどの先進国では前述のように至るところで個人認証がおこなわれ、「監視」の対象となっている。
これは一般的には、自由な状態とは言い難い。
勿論こうした「監視」にはテロを未然に防ぐという名目があり、作中の言葉で言うならば「ある自由を犠牲にして、別の自由を得る。ぼくらは自分のプライベートをある程度売り渡すことで、核攻撃されたり、旅客機でビルに突っこまれたり、地下鉄で化学兵器を撒かれたりすることなく生きてゆける」(P95)のである。
こうした監視社会に異を唱え、認証をハッキングする人々もいるにはいるが、彼らにしても「労働はその個人の自由を奪うけれど、見返りにもたらされる給料で、さまざまな商品を買うことができる。〈引用者中略〉ある自由を放棄して、ある自由を得る」(P127)のだから、程度の差こそあれ「完璧な自由」を享受しているわけではないのは同様である。
もっとも、これらの限定された自由もけっきょくは自らの自由意志によって選び取られた結果(監視が嫌ならハッキングすればよいし、労働が嫌なら働かないのも自由である)であり、その結果(ハッキングの結果当局にマークされる、収入が得られず餓死する、といった)を引き受ける必要があろう。
自由な選択とその結果は、常に離れがたくある。
本作のタイトルである「虐殺器官」とは、人間が有する、ある器官のことだ(未読の方の興を削ぐ恐れがあるので詳細は省く)。
「良心に関する脳の機能の調整」(P222)をおこない、「虐殺行為がおこなわれ、個体数が減」(P261)るようにする器官である。
それを平常時には機能しておらず、実際に虐殺行為がおこなわれる(広範囲の人々の虐殺器官を有効とする)ためにはある手順を踏む必要がある。
それは個人がおこなえるような容易な事柄であるのだが、実行するか否かは当然ながらその人の「自由」な意志による選択によるものに他ならない。
生じた結果に対する責任を引き受ける必要があることも、他の「自由」な選択の結果と同様だ。
当記事をここまでお読みになった方であれば容易に想像がつくことと思うが、虐殺器官を最初に発動させたのはジョン・ポールである。
だが実は、虐殺器官を発動させる人物が作中にはもう一人登場する。
すでに述べたように、「自由」とは「自分にとって最適なものを『選ぶ』能力」を指す。
つまり、虐殺器官を発動させるということは、それが「自分にとって最適」な結果を生むと予期される場合に限られる。
ジョン・ポールのそれは、実は自分の愛する人々を守るために選択された行為であることが終盤明らかになるのだが、ではもう一人の人物は?
それは読者の皆様が直接お読みになって確かめることをお薦めしたい。
果たして、自由は人は幸福にしたのだろうか?
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